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キーボード1枚に3万6,850円。カートに入れてから決済ボタンを押すまで、私は1週間かかりました。仕事道具だから、という言い訳は自分に対して何度も使ったけど、それでも指が止まる。同じ金額でモニターがもう1枚買えるし、iPad無印なら余裕でおつりが来る。結論から書くと、買ってよかったです。ただし「買った翌日から快適になった」わけではまったくなくて、元のタイピング速度に戻るまで実測で1ヶ月かかりました。その1ヶ月がどういう1ヶ月だったのかを、できるだけ正確に残しておきます。
3万6,850円を1週間迷った理由は、値段だけじゃなかった
私はFlutterとSwiftでモバイルアプリを書いています。在宅勤務が中心で、1日のうち6〜7時間はキーボードに触っている。だから道具にお金をかける理屈は立つ。立つんですが、迷った本当の理由は値段そのものより「合わなかったときの逃げ場がない」ことでした。
HHKBは配列が独特です。矢印キーがない。DeleteがBackSpaceの位置にいる。ControlがAの左。つまり、合う合わない以前に、これまで10年以上かけて体に染み込ませた指の動きを一度壊す必要がある。3万円を払って自分のタイピングを壊す、という取引に見えたんですよね。しかも壊した先で合わなかったら、メルカリで売って何千円か損して終わり。
最終的に背中を押したのは、家電量販店の試し打ちコーナーで5分ほど触ったときの感触でした。押し込んだときに底に当たる感じがしない。指が沈んでいく途中でスッと軽くなって、そのまま戻ってくる。この感触が5分で忘れられなくなって、その日の夜に注文しました。買ったのは日本語配列の墨です。
英語配列と最後まで迷いました。プログラミング用途なら英語配列という声が多いのは知っていたけど、私は日本語のドキュメントもSlackも大量に書くので、変換・無変換キーを捨てる勇気が出なかった。この判断は1年経った今も間違っていなかったと思っています。
1週目:まともに文章が書けない日が続いた
届いた日、まずセットアップでつまずきました。DIPスイッチが本体裏にあって、Macで使うならスイッチ1と3をオンにする。ここは説明書どおりでスムーズだったんですが、問題はその後です。
最初の1時間で書けたのは、Slackの返信3通だけ。それも1通あたり2〜3分かかっている。原因ははっきりしていて、カーソルを動かそうとして手が虚空をさまようんですよね。右下に矢印キーがあるつもりで小指を伸ばすと、そこには何もない。HHKBではFnキーと組み合わせてセミコロン周辺の4キーを矢印として使うんですが、この動きが最初はまったく指に乗らない。
1週目の体感を数字にすると、タイピング速度は元の6割くらい。打ち間違いは3〜4倍に増えました。特にひどかったのが、文末で改行しようとしてBackSpaceを押し、書いたばかりの文字を消すパターン。HHKBのDeleteはEnterのすぐ上、通常のBackSpaceの位置にあるので理屈では同じはずなんですが、キーが1つ分ずれた感覚が抜けなくて、何度もEnterと取り違えました。
この週は正直、後悔していました。3万6,850円払って生産性が4割落ちている。妻に「新しいキーボードどう?」と聞かれて「うん、まあ」としか答えられなかったのを覚えています。
2週目から1ヶ月:指が配列を覚えていく過程
変化がはっきり分かったのは9日目です。Emacsキーバインドの話。
MacはターミナルでもテキストフィールドでもControl+Aで行頭、Control+Eで行末、Control+Kで以降削除が効きます。私はこれまでCapsLockをControlに割り当てて使っていたので理屈は同じはずなんですが、HHKBのControlは物理的にAの真横にあって、小指をほとんど動かさずに届く。9日目、コードを書いていてControl+Aを押そうと意識する前に指が動いていた。この瞬間が転機でした。
そこから矢印キーの件も一気に楽になりました。Fnを右手小指、移動キーを同じ右手の指で押すという動きが、ひとつの塊として指に入る。カーソル移動のためにホームポジションから手を外さなくていい、という設計思想が、頭ではなく手で分かった感じです。
2週目の終わりで打ち間違いは元の1.5倍くらいまで戻りました。速度は8割。まだ遅い。
30日目に、元の速度に戻った
元の速度に戻ったと感じたのは、購入から30日前後です。ちょうどスプリントの区切りで、その週はコードよりドキュメントを書く時間のほうが長かったんですが、Notionで仕様書を2時間書き続けて、一度も「打ちにくい」と思わなかった。それで気づきました。
そこからさらに1〜2ヶ月かけて、元より少しだけ速くなったと思います。ただこれは正直、キーボードの性能というよりホームポジションから手を外す回数が減ったことの効果が大きい。矢印キーがないという制約が、結果的に手を動かさない打ち方を強制してくる。制約による矯正です。
逆に言うと、もともとホームポジションを守って打っている人ほど恩恵は小さいのかもしれません。
静電容量無接点の打鍵感を、メカニカルと比べて言葉にする
ここが一番説明しづらいところです。頑張って言語化します。
それまで私は赤軸のメカニカルを2年ほど使っていました。赤軸はリニアなので、押し始めから底まで抵抗が一定です。感覚としては「棒を垂直に押し込んでいる」。どこで入力が確定したかは指では分からないので、多くの人は底まで打つ。だから底打ちの衝撃が指に返ってきます。
HHKBの静電容量無接点は、押し始めに少しだけ抵抗があって、そこを越えると急に軽くなる。この「抜ける」ポイントで入力が確定します。感覚で言うと「水面に指を沈めて、途中で下向きの流れに乗る」ような感じ。底まで押さなくても入るので、慣れると底打ちしない打ち方になっていきます。青軸のようなカチッというクリック感とも違って、もっと滑らかで、音より先に指に伝わる。
戻りも独特です。バネで跳ね返される感じではなく、指を持ち上げるとキーがついてくる。1日6時間打っても指先の疲れ方が明らかに違って、これは1週間目のつらい時期でも唯一はっきり感じていた利点でした。
Type-Sの静音性:子どもが寝ている横で打てるか
うちには生後6ヶ月の子どもがいます。リビングの隅にデスクがあって、昼寝中の横で作業することも、夜に妻と子が寝てから作業することもある。Type-Sを選んだのはこの事情が9割です。
結論として、寝ている子どもの1.5m横で打っても起きません。これは何度も検証した実績があります。ただし条件付きで、正確には「底打ちしなければ」です。
Type-Sは静音化された機構と短いストロークが特徴で、通常のHHKBよりはっきり静か。音の質としては「コトコト」より「スコスコ」に近くて、高い音の成分がほとんどない。ただ、力を入れて底まで打てばやはり「コッ」という音は出ます。深夜に集中して勢いがついてくると自分でも音が大きくなるのが分かる。無音のキーボードではありません。
あと意外だったのが、キーよりスペースキーの音のほうが目立つこと。親指はどうしても力が入るので、ここだけ音量が一段違います。気になる人は打ち方を意識するしかない。
Web会議でマイクが拾うかどうかも試しました。MacBook内蔵マイクだと、静かな部屋で意識して聞けば分かる程度。ノイズキャンセリングが入る会議ツールなら実質聞こえません。赤軸を使っていたときは「タイピング音うるさいですか」と何度か聞いたことがあったので、ここは明確に改善しました。
短所は3つ。特に540gという重さ
いい話ばかり書いてきたので、不満を正直に書きます。
ひとつめは値段。3万6,850円は、どう理屈をこねても高い。5,000円のキーボードでも文字は打てます。私の場合は1日6時間×週5日という使用時間で割って納得しましたが、週に数時間しか触らない人が同じ計算をしたら答えは変わる。
ふたつめは重さです。カタログ値は電池なしで約540g。実際に手持ちのスケールに乗せたら電池込みで590gちょっとありました。持ち運べるサイズだけど、持ち運ぶ重さではない。私は買った当初「カフェにも持って行こう」と思っていて、実際に2回持ち出して、3回目からやめました。MacBook Airに590gを足すと、カバンの重さの体感が明確に変わるんですよね。コンパクトなのは事実だけど、それはデスク上の専有面積の話であって、可搬性の話ではなかった。
みっつめ、これが一番地味に困るんですが、他人のPCで打てなくなります。ペアプロで同僚のMacBookを借りたとき、Controlを押そうとしてCapsLockを押し、矢印を探して右下を見て、Deleteの位置を間違えて文字を消しました。体を作り替えたぶん、標準配列に戻ったときのペナルティを払うことになる。自分のマシンでも、外出時にMacBook本体のキーボードを使うと同じことが起きます。
誰に向いていて、誰には向かないか
万人にはすすめません。これははっきり書いておきたい。
向かないのは、1日のタイピング時間が2時間に満たない人、Excelで数字を大量に入力する人(テンキーがないので致命的です)、ゲームをする人(同時押しの認識やキー配置の点で不利)、そして1ヶ月の生産性低下を受け入れられない状況にいる人。締め切り直前に導入するものではないです。私は比較的余裕のある時期に買ったから乗り切れました。
向いているのは、テキストを大量に書く人で、なおかつ「今の打ち方を変えてもいい」と思っている人。あとは私のように、家族が寝ている横で静かに作業する必要がある人。Type-Sの静音性は、この一点だけでも差額を払う理由になり得ます。
迷っている人に唯一おすすめできる方法があるとすれば、量販店で実物を触ることです。私は5分触って決めました。あの独特の沈み込みが「気持ちいい」と思えるかどうかで、その後の1ヶ月を耐えられるかがだいたい決まる気がしています。あの感触だけは、何本レビューを読んでも文字では伝わりきらない。この記事も含めて。
この記事は開発環境の個別レビューです。モニター選びの判断基準そのものは開発用モニターの選び方|4K・WQHD・ウルトラワイドをコードを書く視点でで整理しています。

